祭りの歴史


▲ 大正〜昭和初期の放生祭(井田家旧蔵古写真)
小浜放生祭は、小浜市小浜男山に鎮座する八幡神社の例大祭で、毎年9月14日・15日に行われてきましたが、平成15(2003)年の祝日法改正以降は、敬老の日直前の土・日曜日に行われています。 この両日、氏子の24区が隔年で12区ずつ出番となり、大太鼓・神楽・獅子・山車・神輿といった多彩な演し物を繰り出し、氏子範囲である小浜の旧市街地を巡り、芸や囃子を披露しています。
八幡神社
小浜市小浜男山に鎮座する八幡神社(八幡宮)は、創建年代は不詳ながら、文永2(1265)年の『若狭国総田数帳案』(東寺百合文書)に記載され、中世以来、守護や藩主の手厚い保護を受けてきた由緒ある神社です。江戸時代には「小浜工商同ク之ヲ祭テ産神ト為ス」(『若狭郡県志』)、「八幡宮 神事 放生会 小浜氏神也」(『若耶一國亀鑑』)とあるように、小浜町人の氏神でありました。

▲ 八幡神社
八幡神社の祭礼「放生会」について
室町時代の応永12(1405)年8月15日の祭礼には流鏑馬が行われたとの記録があります。江戸時代の放生会では、8月14日に相撲、8月15日には神事能の奉納が行われていました。なお、放生会とは、殺生を戒める仏教の教えにもとづき、捕らえた鳥や魚を野や池などに放って供養する儀式のことで、宇佐八幡宮や石清水八幡宮をはじめ各地の八幡宮で行われたため、いつしか、八幡神社の例祭の一般名称のように使われるようにもなりました。小浜の八幡神社の場合も、生きものを放つ儀式は行われていませんが、その例祭は放生会あるいは放生祭と呼ばれてきました。
江戸時代の祇園祭と演し物の行列
現在の放生祭の演し物は、江戸時代までは天王社(現在の廣嶺神社=小浜市千種2丁目)の祇園祭に出ていたものです。
江戸時代の祇園祭は、6月7日に神輿3基が天王社を出御し、府中・上竹原などを経由して、御旅所であった八幡宮(現在の八幡神社)に渡御しました。この時、藩の足軽などが出した大太鼓・神楽太鼓・獅子が行列を組んでお供をし、神輿を八幡宮まで送りました。
神輿は7日後の6月14日に天王社に還御しましたが、この時には、城下の町人町(現在の24区の範囲)からそれぞれに傘鉾・大太鼓や神楽太鼓、山車、さまざまに趣向をこらした仮装の練り子や作り物などで長大華麗な行列を構成してお供をし、神輿を天王社まで送り戻しました。廣嶺神社が所蔵する県指定文化財の「小浜祇園祭礼図」は、江戸後期における6月14日の行列の様子を詳細に描いた絵巻物です。
このように小浜の各町がこぞって祭りに演し物を出すようになったのは、藩主酒井忠勝によって祇園祭が再興され、御旅所が八幡宮に定められた寛永15(1638)年からのことと考えられています。「380年以上」とされる小浜放生祭の歴史は、ここから始まっているのです。


▲ 福井県指定文化財「小浜祇園祭礼図」(江戸後期)廣嶺神社蔵
明治維新後の放生祭と演し物行列
江戸時代に若狭地方で最も賑わっていた祇園祭は、明治維新によって分断されました。明治4(1871)年、小浜の町人町は祇園祭に演し物を出すことをやめ、それらは八幡神社の例祭である放生祭に移ることになりました。
明治7年、それまでの小浜52町は24区に改編され、放生祭の演し物も区単位で出すようになりました。江戸時代の祇園祭の演し物を引き継いだもの、他区から習って新しく始めたものなど、各区それぞれの歴史を経て現在に至っています。
戦前までの放生祭では、9月15日の本日には、すべての演し物が行列を組んで進み、その途上、宮入を済ませ、各区の本陣前では順に芸囃子の披露をおこなっていました。行列の出発地点である広市場(現今宮区)に演し物が集結している様子を撮影した古写真が残っています。

▲ 放生祭 広市場を出発する各演し物
(大正〜昭和初期)井田家旧蔵古写真
第二次世界大戦後の放生祭と演し物
終戦直後の状況は不詳ですが、昭和26(1951)年の式年大祭にはすべての区が演し物を出して参加したようです。そして、昭和28年に広峰区、31年に大宮区、33年に大原区が相次いで大太鼓になり、現在の演し物が出揃いました。
戦後の放生祭では、演し物が行列を組んで動くことはなくなり、各区それぞれでルートを決め、バラバラで巡行しています。戦前までのように行列しながら、その途上の宮入や各本陣で順番を待ちながら芸囃子を披露するよりも、披露する場所や回数が増え、演じる側からも見物する側からも喜ばれたものと思われます。しかし反面、外からの見物客・観光客には、いつどこで何を見ることができるのか、わかりにくい祭りとなってしまったのも事実です。
一度に多くの演し物を見たいという観光客や市民の要望に応えるために、また、演じる側にとっても、多くの観客を前に張り合いのある祭りにしようと、さまざまな試みをしてきました。平成16(2004)年頃からは、祭り二日目の日曜日の午後、まちの駅付近に全演し物が順次集結して共演披露をおこなうことが恒例となり、好評を博してきました。
そして、近年の猛暑による熱中症を避けるため、令和6(2024)年からは「宵宮勢揃い」と称して、一日目の午後4時頃に実施することになりました。

▲ 共演の様子(2023年)
放生祭の演し物のルーツは祇園祭
天王社(現廣嶺神社)の祇園祭は、古くから京都祇園祭の影響を強く受けてきました。したがって、現在の放生祭の演し物も、疫神(疫病を流行らせる悪霊)送りの祭りである祇園祭の演し物としての性格を伝え残しています。
現在の京都祇園祭の山鉾は、疫神をそこに集め、送り出すための装置です。染織品や塗り、彫刻、金具等で豪華華麗に飾り、また中国や日本の古典等にもとづく人形飾りに趣向を表し、さらににぎやかな囃子や踊りなど、さまざまな風流をともなうことによって、山鉾はそこに疫神を惹きつけ集めながら移動していきます。
京都祇園祭の綾傘鉾や四条傘鉾は、長刀鉾などの鉾車の形態になる以前の古い時代の鉾の姿を残しています。疫神の依代である傘鉾と、それを囃す棒振囃子が一団で動くもので、中世後期に流行した風流拍子物という芸能の形態を伝え残しています。これら京都の傘鉾に非常によく似ているのが、傘鉾・棒振・大太鼓が一団で進む放生祭の住吉区の大太鼓です。江戸時代の記録にあるように、本来の名称は「傘鉾」ですが、芸能として発展していくにつれて「大太鼓」と呼ばれるようになったようです。
詳しい説明は省略しますが、大太鼓に限らず、山車も、神楽も、獅子も、放生祭の演し物はいずれも疫神送りのための風流の芸能としての性格を有しています。どの演し物も一箇所に留まっておこなう芸能ではなく、囃子をともないながら町中を移動するのは、疫神を集めてまわっているものと解することができます。そして、山車が宮入するときに「落シ」という急テンポの激しい囃子で神社へ向けて走り込むのは、山車に集めた疫神・悪霊を送り出す、疫神落とし・悪霊落としの場面だと考えることができるでしょう。

▲ 京都祇園祭の綾傘鉾

▲ 住吉区の大太鼓
京と江戸の文化のハイブリッドで発展した多彩な演し物
小浜は、日本海側で京都に最も近い港町として、古くから都の文化を受け入れてきました。京都祇園祭によく似た傘鉾が伝承されていること、山車の懸装品に西陣の織物が多く使われていることなど、放生祭の演し物にも京文化の影響が強く認められます。
小浜はまた、歴代藩主が老中や大老・京都所司代など江戸幕府の要職をつとめた譜代大名、酒井家の城下町として発展してきました。放生祭の獅子は、初代藩主酒井忠勝が旧領地の武蔵国、小江戸川越から三匹獅子舞の演者を連れてきたのがルーツです。また、出囃子がつき、二階屋根を上げ下げできる構造など、放生祭の山車には江戸型山車の影響が考えられます。
このように、京や江戸の文化を採り入れながら発展してきた小浜放生祭(旧祇園祭)は、他に例をみない多彩な演し物(祭礼芸能)で賑わう祭礼となっています。小浜の町衆は、京や江戸の文化を受け入れ、また、独自に発展させながら、長い歴史のなかで、それぞれの演し物(祭礼芸能)を、見応え聞き応えがあり演じる側も楽しい、魅力満点のものへと洗練させてきたのです。

▲ 大太鼓(住吉区)

▲ 神楽(白鳥区)

▲ 獅子(多賀区)

▲ 山車(清滝区)

▲ 神輿(香取区)