飛鳥区
概要
小浜放生祭の山車のなかで唯一の舞台型の山車で、大正3(1914)年に建造されたと伝えられています。神社や各区の本陣前では小学校低学年の児童がかわいい踊りを披露し人気を博しています。
歴史
明治7年の町名改正により、柳町のうち86戸と青井村のうち34戸を合わせて飛鳥町(区)となりました。
柳町や青井村は、江戸時代の祇園祭に練り子などを出していた記録はありません。
明治以降の放生祭に関する記録では、明治31(1898)年は「剣鉾」、明治39年は「練子」、明治40年は「引物」、明治42年は「演舞」などとなっています。現在の舞台型の山車である「飛鳥山」は、大正3年に建造されたものと伝えられています。大正3年の放生祭に「飛鳥山」が出ていたという確かな記録はなく、大正4年の記録にも「練子」となっていますが、大正5年以降は「山車」あるいは「練山」と記録にあるので、確実に「飛鳥山」が出ていたことがわかります。
「飛鳥山」の屋根は折り畳み式、舞台左右はスライド式で、飛鳥区内の道幅が狭い通りを通行できるように工夫して作られています。 昭和30年代半ばまで、飛鳥区内には御茶屋が多かったので、「飛鳥山」の三味線は芸妓(芸子)や親方(置屋の女将等)が担当し、踊りは芸子の見習いである「しこみの子」が主に担当しました。そのため、「オンナヤマ」とも呼ばれていました。

▲ 飛鳥区「飛鳥山」
(大正~昭和初期、井田家旧蔵古写真)
昭和40年代頃から徐々に女の子の人数が少なくなってきたことから、現在では、踊りにも囃子にも男の子が参加するようになっています。
見送幕は、昭和50(1975)年までは「翁」の図柄でしたが、破損がひどくなってきたので、昭和50年に「寒山拾得図」の墨画の見送を新調しました。墨画は京都の画家が描いたものとのことです。

▲ 飛鳥区「飛鳥山」背面
演目と構成
「飛鳥山」上の舞台で披露される踊りは、保育園児から小学三年生までの男女が担当します。踊りの演目は、師匠と保護者が相談して、それぞれの子に合ったものを選んでいます。踊りの際に流す音楽は、現在はCD等に録音したものを再生して流していますが、昭和三十年代頃までは、芸妓が三味線を弾きながら歌っていました。
山車の運行中の囃子には、「浅妻」と「雛鶴三番叟」があります。「浅妻」は行きの囃子、「雛鶴三番叟」は帰りの囃子とされています。「浅妻」の時の子供たちの掛け声は「ハーオ」で、雛鶴三番叟では「ハーオ、ヨーイ、ヤー」となります。かつては「遊び太鼓」や「越後獅子」という囃子の曲があったとのことです。囃子の太鼓と鉦は小学四年生から中学生までの男女が担当します。また囃子の三味線は、区内の女性が担当します。
巡行中は、太鼓二名、鉦二名、三味線二名と囃子方と踊りの師匠が山車に乗車します。踊りを披露する本陣前などに山車が止まると、囃子方は太鼓と鉦を舞台の端に寄せ山車から降り、踊り子が山車に上がり踊りを披露します。踊りが終わるとまた囃子方が山車に乗り込み、太鼓と鉦を設置し、次の場所へと出発します。

▲ 飛鳥区「飛鳥山」の踊りの披露

▲ 飛鳥区「飛鳥山」の巡行