生玉区
概要
富沢町(本町)は、延宝7(1679)年は「進上山」、延宝8年以降は「夷山」を祇園祭に出していた伝統を持っています。現在も生玉区の山車は「蛭子山」と称し、本陣飾りには蛭子人形が残っています。
歴史
明治7(1874)年の町名改正により、本町(旧 富沢町)49戸、八百屋町64戸、川縁町の内1戸を合わせて生玉町(区)となりました。
記録によれば、富沢町は、寛文11(1671)年は隣の瀬木町と合同で「進上」の練り子を祇園祭に出し、延宝7(1679)年は富沢町単独で山車「進上山」を出していますが、翌延宝8年には「夷山」に変わっています。富沢町の「夷山」は享保5(1720)年にも出ていますが、享保の改革により京都祇園祭以外の全国各地の山車が幕府から禁止されたため、翌享保6年は「長刀持」の練り子で出ています。宝暦7(1757)年頃には「夷山」は復活し、瀬木町の「大黒山」と隔年で出ていたようです。文化末(1817)年頃の記録には本町の「恵毘須山」とあります。現在の生玉区本陣には蛭子人形を飾りますが、その収納箱には文久元(1861)年の墨書銘が残っています。
八百屋町は寛文11年は「愛宕」、延宝7年は「愛宕参」の練り子を祇園祭に出し、延宝8年には山車「愛宕山」になっています。八百屋町の「愛宕山」は享保5年にも出ていますが、翌享保6年は「愛宕参」の練り子で出ています。文化末年頃は「花」、安政5(1858)年は「愛宕参」の練り子となっています。
廣嶺神社が所蔵する江戸後期の絵巻物「小浜祇園祭礼図」(県指定文化財)には、なぜか「夷山」(「恵毘須山」「蛭子山」)が描かれていませんが、瀬木町の「大黒山」は描かれているので、絵巻には「大黒山」の出番の年の祭礼の様子が描かれたものと考えられます。
明治以降の放生祭では、本町の「蛭子山」を引き継いで生玉区の演し物としました。記録には、明治39年以降も「山車」または「山」と記されています。
現在の「蛭子山」の建造年代は不詳ですが、幕末から明治前期の頃に建造されたものと考えられ、放生祭の現存の山車としては清滝区の「大津町山」に次いで古いものと思われます。

▲ 生玉区「蛭子山」
(昭和初期、井田家旧蔵古写真)
見送幕は綴織の「東方朔雲上之図」、横幕も綴織で右が「麒麟」、左が「鳳凰」の図で、昭和2(1927)年に御大典を記念して新調しました。また、天井の緋羅紗に打たれた星座の鍍銀金具は、京都祇園祭の長刀鉾の天井囲板の星板鍍金二十八宿図(文政期作)を意識して作られたものと思われ、貴重な装飾品です。

▲ 天井の星座の鍍銀金具

▲ 京都祇園祭 長刀鉾の
星板鍍金二十八宿図

▲ 生玉区「蛭子山」 左後方
演目と構成
生玉区「蛭子山」の囃子は、山車が動くときの道行の曲には「唐子」「唐団扇」「布袋」「獅子」「毛槍」「兵蔵」「吉田」「明月」「神子の舞」「猿の舞」「蘭笛」がありますが、「蘭笛」は現在は演奏されません。本陣などで山車を止めて披露する囃子の曲は「金三切」「唐人形」「津島」「絹々」「釣竿」「茶摘」「新田」「三輪」「宇治橋」「旦那」「松」「六編返し」がありますが、「旦那」「松」「六編返し」は現在演奏されません。
宮入の時は「神子の舞」で神社に向かい、一の鳥居をくぐったあたりからは激しいテンポの「落シ」を演奏し、山車は神社へ向かって走ります。二の鳥居前に山車を据えて神社で奉納する曲は「釣竿」「三輪」「宇治橋」などです。「蛭子山」であることから「釣竿」の曲を大事にしています。
他の山車の区を通る時には、その区にはない曲で通るので、たとえば塩竃区では「吉田」を演奏します。また、長い距離を動くときは「兵蔵」や「吉田」などのゆったりした曲を演奏し、とくに電線などが張られていなくて、毛槍を高く伸ばせるところでは、「毛槍」を演奏します。
巡行を終えて自区の本陣に帰ってくるときは、「猿の舞」から「落シ」で帰陣します。

▲ 生玉区「蛭子山」の宮入

▲ 生玉区「蛭子山」