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各区のご紹介

各区紋章画像 今宮区

概要

 江戸時代には突抜町(つきぬけちょう)の「行者山(ぎょうじゃやま)」と上市場(かみいちば)下市場(しもいちば)安居町(やすいちょう)の「高砂山(たかさごやま)」の二台の山車(やま)がありました。現在の「今宮山」は、これら二台の山車の部品や縣装品(けんそうひん)を利用して、昭和3(1928)年に建造したものです。

歴史

 明治7(1874)年の町名改正により、突抜町32戸、上市場33戸、下市場30戸、安居町29戸を合わせて今宮町(区)となりました。
 記録によれば、突抜町と下市場は、寛文11(1671)年と延宝7(1679)年に「両替(りょうがえ)」の()()を祇園祭に出しています。また上市場は寛文11年「長刀」、延宝7年は「長刀持」の練り子となっています。享保5(1720)年頃になると、上市場と下市場は山車「高砂山」を出すようになっていますが、享保の改革により京都祇園祭以外の全国各地の山車が幕府から禁止されたため、翌享保6年は「朝鮮人行列」の練り子で出ています。その後「高砂山」は復活し、文化末(1817)年頃には、上市場・下市場・安居町が合同で出すようになっています。その後、安政5(1858)年、万延元(1860)年など幕末まで「高砂山」が出ていた記録があります。
 いっぽう突抜町は文化末年頃には単独で山車「行者山」を出していますが、嘉永6(1853)年の大火で焼失したためか、安政5年は「行者参(ぎょうじゃまいり)」の練り子で出ています。

▲ 上市場・下市場・安居町の「高砂山」
(廣嶺神社蔵「小浜祇園祭礼図」より)

▲ 突抜町の「行者山」
(廣嶺神社蔵「小浜祇園祭礼図」より)

 廣嶺(ひろみね)神社が所蔵する江戸後期の絵巻物「小浜祇園祭礼図」(県指定文化財)には、「高砂山」「行者山」がともに描かれています。「高砂山」の2階には尉と姥の高砂人形が、「行者山」の2階には行者人形が乗せられています。「高砂山」の人形に使っていた尉と姥の面や、「行者山」の行者人形が残っていて、現在は本陣飾りに用いられています。

▲ 今宮区の本陣飾り

 明治以降の放生祭に関する記録では、今宮区は明治31(1898)年は「作り物」、明治33年は「練り子」、明治39年も「練子」となっています。明治40年から大正6(1917)年までは「山車」で参加していた記録がありますが、その山車が損傷したため、大正13年は「武者」、大正14年は「練子」で参加しています。
 昭和3年の御大典を記念して山車を新造し、「今宮山」と名付けられました。「行者山」の下行(げぎょ)懸魚(げぎょ))彫刻や上り龍・下り龍の前柱、「高砂山」の金幣(きんべい)綴織(つづれおり)見送幕(みおくりまく)などで美しく飾り、また、長浜の曳山を参考にしたとされる唐破風(からはふ)に神殿様式の屋根や、御所車(ごしょぐるま)型の後輪、固定化した出囃子など、独特の形式を取り入れ、新旧の調和のとれた大きく美しい山車として親しまれています。

▲ 今宮区「今宮山」
(昭和初期、井田家旧蔵古写真)

 「五仙(ごせん)図」の見送幕は文化6(1809)年に京都の西陣から購入したと思われる綴織で、年代のわかる綴織の見送幕としては、若狭で最も古いものですが、現在は平成22(2010)年に復元新調したものを使用しています。また、鳳凰(ほうおう)図の見送房留金具(ふさどめかなぐ)は天保10(1839)年に作られたものです。

▲ 今宮区「今宮山」背面

演目と構成

 今宮区「今宮山」の囃子は、山車が動くときの道行の曲には「布袋(ほてい)」「兵蔵(ひょうぞう)」「唐団扇(とううちわ)」「唐子(からこ)」「毛槍(けやり)」「獅子(しし)」「大小蘭(だいしょうらん)」「(さる)(まい)」「乱笛(らんてき)」「神子(みこ)(まい)」があります。また、本陣などで山車を止めて披露する囃子の曲は「金三切(かねさんぎり)」「新田(にった)」「唐人形(とうじんけい)」「絹々(きぬぎぬ)」「津島(つしま)」「茶摘(ちゃつみ)」「釣竿(つりざお)」「三輪(みわ)」「(まつ)」「宇治橋(うじばし)」があります。
 宮入の時は「神子の舞」で神社に向かい、一の鳥居をくぐったあたりからは激しいテンポの「落シ」を演奏し、山車は神社へ向かって走ります。二の鳥居前で奉納する曲は、「松」「三輪」「宇治橋」などです。

▲ 今宮区「今宮山」の宮入

▲ 今宮区「今宮山」