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各区のご紹介

各区紋章画像 清滝区

概要

 江戸時代には大津町の「刀掛山(かたなかけやま)」として、藩主から下賜された大小の刀を二階に飾っていました。現在の山車(やま)は慶応4(1868)年の建造です。

歴史

 明治7(1874)年の町名改正により、大津町96戸と、松本町の内15戸、本町の内2戸、川縁(かわべり)町の内5戸を合わせて清滝町(区)となりました。清滝区の山車は、江戸時代の祇園祭に大津町が出していたのを引き継いだもので、旧町名から「大津町山」と呼ばれています。
 記録によれば、大津町は寛文11(1671)年は「長刀」の()()、延宝7(1679)年は「長刀山」、翌延宝8年は「大名山」を、文化末(1817)年頃は「刀掛山」を祇園祭に出していました。廣嶺神社が所蔵する江戸後期の絵巻物「小浜祇園祭礼図」(県指定文化財)には、大津町の「刀掛山」が描かれていて、藩主から拝領したという大小の刀が二階に飾られているのが見えます。現在も清滝区の本陣ではこの大小の刀袋を飾っています。この他、屋根の後方に高々と伸びる二本の鳥毛槍(とりけやり)や、旧見送(みおくり)幕・旧横幕なども藩主から拝領したものと伝えられています。嘉永6(1853)年の大火で焼失しましたが、慶応4(1868)年に再建された大津町の山車は、現在の放生祭に出る山車の中で最も古いものとなっています。

▲ 大津町の「刀掛山かたなかけやま
(廣嶺神社蔵「小浜祇園祭礼図」より)

 明治から昭和戦前までの放生祭においては、清滝区は出番の年には必ず行列の殿(しんがり)(最後尾)の位置をつとめていました。

▲ 清滝区「大津町山」
(大正〜昭和初期、井田家所蔵古写真)

 現在の「大津町山」を飾る見送幕の「萬歳楽図」、横幕の「四神図」は、いずれも芸術院会員の山鹿清華(やまがせいか)氏によるもので、見送幕は昭和3年、横幕は昭和36年に新調されました。また、見送房掛金具の龍一対は天保15(1844)年のものです。

▲ 清滝区「大津町山」 右後方

演目と構成

囃子の曲目

 清滝区の囃子は全部で25曲で、放生祭の山車の区のなかで最も多くの曲が伝えられていますが、現在は演奏できない曲も含まれます。
 山車を運行しながら演奏する道引の曲は「布袋(ほてい)」「唐團(とううちわ)」「さるの舞まい()」「唐子(からこ)」「獅子(しし)」「毛鎗(けやり)」「兵蔵(ひょうぞう)」「大小蘭木(だいしょうらん)」「神子(みこ)」「乱敵(らんてき)」「明月(めいげつ)」「吉田(よしだ)」「閑月(かんげつ)」があります。
 本陣前などで山車を停めて子供が出囃子で太鼓を打つ曲は、「金上切(かねしゃんぎり)」「唐人景(とうじんけい)」「津嶋」「釣竿(つりざお)」「茶積(ちゃつみ)」「絹衣(きぬぎぬ)」「六返かえし(ろっぺんがえし)」「高砂(たかさご)」「旦那(だんな)」「宇治橋(うじばし)」「三輪(みわ)」「村雨(むらさめ)」があります。
 清滝区では、区内を出発するときは必ず「毛鎗」を演奏することが決まっています。宮入のときには名曲「神子」で神社に向かい気分を盛り上げ、参道の一の鳥居の角を曲がると、囃子は急テンポの短いフレーズを繰り返しながら激しく太鼓を打ち鳴らす「落シ」に変わり、山車は神社へ向けて走り込みます。
 巡行を終えて本陣へ帰るときには「猿の舞」を演奏しながら向かい、区内に入ったら「落シ」で本陣前まで走り込みます。
 子供の曲では、「宇治橋」が最も高学年の子が打つ曲です。また「三輪」は格式の高い曲だとされ、宮入には、「三輪」と「宇治橋」を奉納しています。

▲ 清滝区「大津町山」