MENU

各区のご紹介

各区紋章画像 大原区

概要

 西津七年祭りの小松原川西区から指導を受け、昭和33(1958)年から大太鼓を()(もの)としています。棒振は「二人棒」「三人棒」「半棒」があり、「半棒」の囃子には笛が加わります。

歴史

 明治7(1874)年の町名改正により、清水()町44戸と今道()町の内45戸を合わせて大原町(区)となりました。
 記録によれば、清水町は寛文11(1671)年には西七町として「参宮(さんぐう)」の()()、延宝7(1679)年は西五町(山岸町・甲呂木(こうろぎ)町・文殊丸(もんじゅまる)町・浜浦町と合同)として「参宮」の練り子、安政5(1858)年には文殊丸町・浜浦町と合同で「異国来朝(いこくらいちょう)」の練り子を祇園祭に出していました。また、今道町は延宝7年には「能因法師(のういんほうし)」の練り子、安政5年は「花筏(はないかだ)」を出しています。
 明治以降の放生祭では、明治39年は「引物(ひきもの)」、それ以降は「練物(ねりもの)」や「練子(ねりこ)」と記録にありますが、具体的にどのような練り子を出していたのかははっきりとしていません。戦前は「なり平の東下り」という練り子だったと伝えられていて、昭和初期の古写真には、カキツバタらしき花を持つ子供たちがたくさん写っていますので、大正末から昭和戦前期にかけては、『伊勢物語』などで知られる在原業平(ありわらのなりひら)東下(あずまくだ)りに取材した練り子を出していたと思われます。

▲ 大原区の練り子
(昭和初期、井田家所蔵古写真)

 戦後の昭和26年の式年大祭と、昭和27年、昭和29年の放生祭には八木節で参加しました。荷車に桶太鼓を載せて曳いて歩き、八木節音頭に合わせて子供たちが傘を持って踊りました。
 そして、昭和33年からは、西津七年祭の小松原川西区から教えてもらい、大太鼓を出すことになりました。そのため、昭和31年の出番は休み、区内外から寄付金を集め、準備をしました。以降、大太鼓を奉納してきました。

演目と構成

棒振

 大原区大太鼓の棒振には、二人一組で演じる「二人棒」と、三人一組で演じる「三人棒」と「半棒」の三種類の演技がありますが、近年は「三人棒」を演じていません。大原区の棒振は、住吉区や鈴鹿区などの豪快な演技に比べて、素早い立ち回りの演技が特徴です。
 棒振を演じる時の太鼓・鉦による伴奏曲は、「三人棒」と「二人棒」は同じ「棒振り」で、「半棒」の伴奏曲の時だけは、笛が加わります。

太鼓・鉦の曲

 棒振の伴奏曲である「棒振り」と「半棒」以外に大人が打つ太鼓の曲は、「道曳(みちび)き」と「(うち)こみ」があります。子供太鼓の曲も含めて、笛が入る曲は「半棒」だけです。
「道曳き」は巡行の行列が進んで行くときのゆっくりとした太鼓の打ち方です。部分名称として「仇結(あだむす)び」「一つ結び」「二つ結び」「三つ結び」「入バイ」「六つ結び」「変り」などがあります。本陣が近づくとテンポを上げ、急テンポの「打こみ」に変え、本陣前でしばらく打ち込んでから太鼓を打ち止めます。その後、棒振の演技を披露し、続いて子供太鼓の曲を披露します。
 子供太鼓の曲には、「ヤアドデン」「オオサカバイ」「オオサカバイのカタバイ」「シシクリ」「カンカンカン」「カンカンカンの入れバイ」「棒振りくずし」「棒振りくずしのオールカタカン」があります。
 子供の曲が終わると、「上げバイ」と呼ぶ出発時の打ち方から「打こみ」に移り、次の場所へ動き始めるとテンポを緩めて「道曳き」に変わります。

▲ 二人棒

▲ 半棒

宮入

 八幡神社へ宮入するときは、一の鳥居から二の鳥居までの間を棒振が「ホウ、リョウ、リョウ、リョウ、リョウ」と叫びながら、体の左右で交互に棒を回し、飛び跳ねるように前進する動作で、神社参道を払い清めるようにして二の鳥居まで進みます。また、二の鳥居から拝殿の階段下まで「ウャー」と大声で叫びながら走り込んだり、大太鼓の屋形を迎えに行ったりして、棒振が独特の動作で大太鼓屋形を境内まで導きます。
 この間、大太鼓の「打こみ」が力強く打ち続けられ、迫力があります。大原区の大太鼓は、西津の力太鼓の系統の打ち方ですが、放生祭の5区の中では最も早いテンポで打ち込みます。

▲ 宮入 走り込む棒振