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各区のご紹介

各区紋章画像 男山区

概要

 男山区は、明治28(1895)年・29年頃、区内在住の旧藩士の武久釘五郎氏らから獅子舞を伝習し、放生祭の()(もの)としました。明治34年には旧小浜藩主酒井家より井筒(いづつ)の紋の使用を許されました。

歴史

 明治7年の町名改正により、中小路32戸、八幡小路27戸、西宮前町35戸を合わせて男山町(区)となりました。
 江戸時代の記録によれば、寛文11(1671)年と延宝7(1679)年は、西宮前町と八幡小路は合同で「夷大黒(えびすだいこく)」の()()を出ししており、文化末(1817)年頃も合同で「恵毘須大黒(えびすだいこく)」の練り子を、安政5(1858)年は合同で「諸商人(しょしょうにん)」の練り子を祇園祭に出していました。
 男山区の獅子の始まりには二説あります。一つは、明治28年に旧関東組の獅子頭を購入し、区内在住の旧藩士武久釘五郎氏らから指導を受けて稽古を始め、明治30年4月に小浜鉄道敷設仮免許交付の祝賀会に出たのが始まりとするもの。もう一つは、明治29年の日清戦争の凱旋祝いに獅子舞を舞うために稽古を始め、獅子頭も新調したとするものです。
 いずれにしても、記録によれば明治31年は「獅子 十四日出 男山」、明治33年は「関東獅子舞 男山」とあり、以降、男山区は放生祭に獅子を出してきました。明治34年には旧藩主の酒井家から、水引に井筒の紋を使用することが許されています。

▲ 男山区獅子
(大正〜昭和初期、井田家旧蔵古写真)

演目と構成

 獅子は、メジシ(雌獅子)・トシヨリジシ(年寄り獅子)またはロウジシ(老獅子)・ワカジシ(若獅子)の三人一組の舞方が、笛方の笛と歌方の歌に合わせて、腰につけた太鼓を打ちながら舞います。

▲ 男山区獅子

 演技は「(もん)がかり」「(わた)拍子(びょうし)」「神楽拍子(かぐらびょうし)」「つくばい」に分かれていて、これらを一度に通して披露することを「通し」あるいは「一庭(ひとにわ)」といいますが、「通し」は宮入(みやいり)や男山区の本陣、他の獅子の区の本陣だけで演じられます。他の区の本陣などでは、いずれかの部分を演じます。
 移動中は「道引(みちびき)」の笛に合わせて行列します。「道引」には歌はありません。宮入の時は「道引」のテンポを早くして、八幡神社へ入って行きます。

▲ 男山区獅子 「つくばい」