酒井区
概要
質屋町の「布袋山」として、延宝7(1679)年から祇園祭に出ていた伝統を持っています。現在の酒井区の山車は明治34(1901)年に建造、大正15(1926)年に塗りと金具を新調しました。二階には布袋面と唐子人形を飾り付けています。
歴史
明治7(1874)年の町名改正により、質屋町31戸、片原町58戸と松寺小路のうち19戸を合わせて春日町(区)となり、明治13(1880)年に酒井町(区)と改称しています。
記録によれば、質屋町は、寛文11(1671)年は「布袋」の練り子を祇園祭に出し、延宝7(1679)年には山車「布袋山」を出すようになっています。延宝7年の記録には「布袋山に唐子のねり子有」と記されています。現在の「布袋山」では唐子人形2体が山車の2階に飾られていますが、当時は唐子の扮装をした練り子たちが、布袋の人形を飾った山車とともに一団となって動いていたものと思われます。
享保5(1720)年も質屋町は「布袋山」を出していますが、享保の改革により京都祇園祭以外の全国各地の山車が幕府から禁止されたため、翌年からは「笠鉾に成、或は両替に成」とあり、しばらくは笠鉾を出したり、「両替」の練り子を出したりしていたものと思われます。
質屋町の「布袋山」は、宝暦6(1756)年頃には復活し、以降幕末までずっと質屋町は「布袋山」を出しています。廣嶺神社が所蔵する江戸後期の絵巻物「小浜祇園祭礼図」(県指定文化財)には、質屋町の「布袋山」が描かれていますが、現在の二層形式の山車ではなく、正面に大きな布袋人形を据え、その後ろを大きな幌で覆う一層形式の山車として描かれています。幌は、布袋が背に担いで持ち運んでいた大きな布袋をさらに強調し巨大化したものと思われ、その幌のわずかな隙間から、笛を吹いているらしい人物の顔などが見え、囃子方は幌の中に乗り込んでいることがわかります。また、屋根から突き出ている吹流の柱には、唐子人形がしがみついています。延宝7年頃には練り子であった唐子は、人形となって山車に乗せられたことがわかります。

▲ 質屋町の「布袋山」
(廣嶺神社蔵「小浜祇園祭礼図」より)
片原町は寛文11年と延宝7年は「鯛釣」の練り子、延宝8年は「浦島」の練り子を祇園祭に出しています。文化末(1817)年頃は「花」、安政5(1858)年は「小原女」の練り子となっています。
明治以降の放生祭では、質屋町の「布袋山」を引き継いで酒井区の演し物としました。ただし、明治4(1871)年5月の段階で「布袋山」は鳥浜(若狭町鳥浜か?)に売却されています。ただし布袋面と唐子人形だけは区内の人が買い取りました。そのため、明治31(1898)年の放生祭の記録では、酒井区は「造り物」となっています。
現在の酒井区の「布袋山」は、明治34年に建造されたもので、大正15年に塗りや金具を新調しています。質屋町の「布袋山」で使用していた布袋の面を二階奥天井近くに掛け、唐子人形二体を二階前面の柱に付けています。布袋面の収納箱には安政5(1859)年、唐子人形の収納箱には寛政5(1794)年の墨書が確認されています。

▲ 酒井区「布袋山」の2階に飾られた布袋面と唐子人形
竹林の七賢人の図柄の見送幕は、昭和2(1927)年に京都・西陣で作られた綴織です。また、左右の横幕は、「唐子遊び」の図柄で、こちらも昭和2年製です。

▲ 酒井区「布袋山」
(昭和初期、井田家旧蔵古写真)
演目と構成
酒井区「布袋山」の囃子は、山車の巡行中に演奏されるミチユキ(ミチビキ)の曲に「布袋」「大小ラギ」「唐子」「猿の舞」「明月」「兵蔵」「唐団扇」「獅子」「毛槍」「神子の舞」の10曲があります。また、本陣や宮入りなどで山車を停めて演奏されるデバヤシの曲は「津島」「金上切」「三輪」「茶摘」「唐人慶」の5曲があります。「唐人慶」は昭和7(1932)年を最後に長らく途絶えていた曲ですが、平成30(2018)年、86年ぶりに復活しました。
ミチユキは大人と中高生、デバヤシは小学生が担当しますが、ミチユキの「布袋」や「猿の舞」は小学生も叩きます。
巡行中に他の山車の区に入るときは、「良い曲」とされる「明月」(清滝区)、「毛槍」(生玉区)、「兵蔵」(竜田区)などを演奏しながら本陣へ向かいます。また、山車区の本陣で演奏するデバヤシは、子供の曲として最も良いとされる「三輪」を必ず演奏します。
宮入の際には、「布袋」で神社に向かい、一の鳥居の角を曲がると激しいテンポの「オトシ」に変わります。他の山車の区のように「神子の舞」→「落シ」ではなく、「布袋山」にちなんで「布袋」→「オトシ」になっているようです。また、帰陣の際には、他区の場合は「猿の舞」→「落シ」ですが、酒井区は「神子の舞」→「オトシ」です。

▲ 酒井区「布袋山」

▲ 提灯をつけて巡行する「布袋山」