多賀区
概要
一番町を師匠に伝習し、明治41(1908)年から放生祭に獅子を出すようになりました。江戸時代には洲崎町・川崎町は「木賊山」や「異国凱陣」の練り子などで祇園祭に参加していました。
歴史
明治7年の町名改正により、川崎町の内28戸と洲崎町の内75戸を合わせて多賀町(区)となりました。
江戸時代の記録によれば、寛文11(1671)年は「木賊」の練り子を、延宝7(1679)年は山車「木賊山」を、川崎町と須崎町が合同で祇園祭に出しています。川崎町の「木賊山」は享保5(1720)年にも出ていたことがわかりますが、享保の改革により京都祇園祭以外の全国各地の山車が幕府から禁止されたため、翌享保6年は「とくさかり」の練り子で出ています。以降川崎町の山車は復活しなかったようで、文化末(1817)年頃は洲崎町とともに「作り物」、安政5(1858)年は川崎町は「俵藤太」の練り子、洲崎町は「異国凱陣」の練り子で祇園祭に出ています。
明治以降の放生祭の記録では、多賀区は、明治31年は「提灯」、明治33年は「奉納」とあり、明治39年と40年は「引物」を出しています。そして明治41年、一番町区から獅子を伝習し、放生祭の演し物とし、現在に至っています。
▲ 多賀区獅子
(大正〜昭和初期、井田家旧蔵古写真)
▲ 多賀区獅子
演目と構成
獅子は、オイジシ(老い獅子・白)、メジシ(雌獅子・赤)、ワカジシ(若獅子・黒)の三匹で舞う三匹獅子舞で、胸につけた太鼓を打ちながら、笛と歌に合わせて舞います。多賀区の獅子は他に比べて勇壮な獅子で、強弱・緩急をつけて激しく舞うのが特徴です。
獅子の演技は、二匹の雄獅子が雌獅子をめぐって争い、やがて和解するという筋書きになっています。「道引き」の笛に合わせて道中を歩き、本陣前に来ると「門掛り」で白・赤・黒の順で舞い場へ入場し、三匹揃って舞い、白の赤への求愛、白と黒との戦い、白が休み、黒が求愛する、再び白と黒が戦う、白と黒が仲直りし三匹揃って舞う、といった流れで舞います。次に「渡り拍子」で三匹はゆっくりとしたテンポで舞います。続く「神楽拍子」では、雄獅子二匹が激しく戦うように舞う場面が二回あります。一回目はゆっくりで二回目は早く舞います。その後一度舞いを止め、三匹がそれぞれ膝をついて太鼓を打つ「つくばい」に入ります。つくばいのまま「神前囃子または庭前囃子」で神社では神前の歌、それ以外では庭ほめの歌に合わせて太鼓を打ち、そのあと立ち上がって三匹で舞ったあと、三匹それぞれお辞儀をし、「道引き」の笛で退場します。
以上を通して舞うことを「一庭」といいます。一庭舞うには40~50分かかるので、祭りでは日吉と玉前の本陣だけで一庭舞い、他では短縮したかたちで舞います。多賀区の獅子頭(鬘)は大・中・小の三組あり、だいたい小学四年ぐらいから小、小学六年から中学生ぐらいが中、それ以上が大をつけて舞いますが、大・中・小それぞれで、短縮した舞い方は異なります。
すべての奉納・披露を終了して多賀区の本陣へ帰陣する道中は、「セメ太鼓」と呼ばれる速いテンポの「道引き」の囃子を演奏しますが、この時は提灯を灯し、笛方も獅子の舞方(舞い手)も御簾(水引)を上げることになっています。「セメ太鼓」が始まると途中で止めることは決してなく、多賀区本陣に戻ってからもしばらく打ち続け盛り上がってから終了します。
▲ 多賀区獅子 宮入
▲ 多賀区獅子 「つくばい」