MENU

各区のご紹介

各区紋章画像 玉前区

概要

 明治24(1891)年に旧関東組(かんとうぐみ)の人々から伝授を受け放生祭に獅子を奉納するようになりました。江戸時代には山車(やま)大黒山(だいこくやま)」を出していたため、本陣飾りに大黒天の人形が残っています。

歴史

 明治7年の町名改正により、瀬木(せぎの)(ちょう)70戸、(しん)町28戸と塩浜(しおはま)小路(こうじ)のうち3戸を合わせて玉前町(区)となりました。
 江戸時代の祇園祭の記録によれば、寛文11(1671)年に瀬木町は富沢(とみざわ)(ちょう)(のちの本町=現在の生玉区の一部)と合同で「進上(しんじょう)」の()()を出しています。また延宝7(1679)年には、瀬木町は新町と合同で山車「大黒山」を出しています。その後幕末に至るまで瀬木町はずっと山車「大黒山」を出してきました。ただし、享保の改革で京都祇園祭を除き全国の祭礼屋台が禁止された享保6(1721)年は「母衣(ほろ)(おい)」の練り子、嘉永6(1854)年の大火で焼失したため山車を出せなかった安政5(1858)年は「(ちから)(もち)」の練り子を出しています。いっぽう新町は文化末(1817)年頃は「花」、安政5年は「草刈」の練り子を出しています。
 廣嶺(ひろみね)神社が所蔵する江戸後期の絵巻物「小浜祇園祭礼図」(県指定文化財)には、「大黒山」が描かれています。

▲ 瀬木町の山車「大黒山」
(廣嶺神社蔵「小浜祇園祭礼図」より)

 また、玉前区の本陣飾りには、江戸時代の「大黒山」に乗せていたと思われる大黒天の人形が残っており、この人形に用いている面の収納箱には、文久2(1862)年の年号が記されています。

▲ 玉前区本陣飾りの大黒人形

 明治24(1891)年、玉前区は、旧関東組の獅子舞を習い、また、獅子頭も新調して、以降、放生祭に獅子を奉納するようになります。ただし、明治31年の記録には「作り物」とあるので、獅子を出せない年もあったようですが、明治39年以降の記録では確実に獅子を出していることがわかります。

▲ 玉前区獅子
(大正~昭和初期、井田家旧蔵古写真)

演目と構成

 玉前区の獅子は、オイジシ(老獅子)、メジシ(雌獅子・女獅子)、ワカジシ(若獅子)の三人一組の舞方が、笛方の笛と歌方の歌に合わせて、胸につけた太鼓を打ちながら舞います。玉前区の獅子は太鼓を胸高に付け、雄獅子同士の戦いの場面であるハネの場では足を高く上げて跳ね、腰を低く、型を崩さずきちんと勇壮に舞う獅子です。

▲ 玉前区獅子

 獅子は演技にはストーリーがあり、二匹の雄獅子が雌獅子を奪い合う話になっています。獅子は「ミチビキ(道行)」笛で道中を行列して歩き、「門掛(もんがか)り」で舞う場所へ入場すると、笛と歌に合わせて、ハネまたはカケアイ(掛合い)と呼ばれる求愛と戦いの舞、三匹が仲直りしての舞などがあり、つづく「(わた)拍子(びょうし)」では笛に合わせて比較的ゆっくりしたテンポで三匹が舞います。次の「神楽(かぐら)拍子(びょうし)」では再び笛と歌に合わせて雄獅子二匹が激しく舞い、一度動きを止め、「つくばい」に移ります。「つくばい」では笛に合わせて三匹がそれぞれ膝をついた姿勢で太鼓を叩きます。つづいて「庭前囃子または神前囃子」で、ひきつづき膝をついたままで太鼓を叩き、歌方が歌を歌いますが、神前で舞うときとそれ以外の場所では歌詞が異なります。「つくばい」から立ち上がって舞い終わり、最後の歌のあと、三匹が順にお辞儀をすると「ミチビキ(道行)」の笛になり、退場します。
 入場から退場まで省略せずに舞うことをヒトニワ(一庭)といい、40~50分かかります。稽古納めや多賀区本陣では一庭舞いますが、他の場所での披露では短縮版を舞っています。
 二日目の祭りの最後に帰陣する道中は、「帰り太鼓」あるいは「セメ太鼓」と呼ばれる速いテンポのミチビキの笛が吹かれ、白、黒、赤それぞれ異なる叩き方で太鼓を叩きながら行進します。